今は去ること3年前の3月5日の夜、洋介氏はピアノ・リサイタル後半に予定されたショパンのチェロソナタを演奏するために、音楽の友ホールの楽屋で出番を待っていました。コンサートが始まり楽屋からピアニストが舞台に出て行ったところで、洋介氏はやっと広くなった楽屋を見まわし、やおらタキシードに着替えにかかりました。するとどうでしょう、用意してきたはずの白いドレスシャツがバックに入っていません。前夜わざわざクリーニング店から取ってきて準備していたドレスシャツは、そういえば最後に入れようと思ってそのまま置いて出てきてしまったらしいのです。
一瞬凍りついた洋介氏、だが気を取りなおし、外に探しに出ることを決意しました。なんといってもここは神楽坂、趣きのある商店が軒を連ねているので、ドレスシャツとはいかないまでも白いワイシャツならきっとどこかで見つかるでしょう。出番の後半まではあと50分程あるのです。
音楽の友ホールは、音楽之友社ビルの地下をぎりぎりまで使った設計で、客席を通らなければ表には出られません。でもさっき迷路のような通路を、トイレ目指して彷徨った洋介氏は楽屋の奥に細い通路があり、階段を上ったところに非常口があるのを知っていました。ドアを押してみるとありがたいことに開いていました。自動ロックで一度閉めると外からは開かないので、洋介氏は手頃な石を必死で探し扉にはさんで、ピアノの音がする会場をそっと後にしました。
夕闇の中、神楽坂は店の明かりと人々の雑踏で賑わっていました。洋品店を探し、きょろきょろと坂を早足でおりて行く洋介氏あちこち尋ねてまわるも、あるのは婦人ブティックばかり。おまけにここで所持金が三千円しかないことに気づき、パニック度は倍増しました。
それでも白シャツを求め、洋介氏はついに飯田橋の駅ビルに。ここなら洋品店くらいあるだろう、カードも使えるだろう...。希望を持って足を踏み入れ、手近な店のおにいさんに洋品店の所在を尋ねたところ「あぁ、あるよ。だけど今、改装中だ。」という無情な答え。洋介氏は目の前が真っ暗になりながら、道を引き返し始めたのでした。「人さまのリサイタルなのに、ちゃんとした格好をしないのは申し訳がない。」「こうなったら着て来た濃緑のシャツで出るしかないかなぁ。」「ハァハァ、この急な坂!」と胸の中はハチャメチャ状態。でもこれ以上、先を探す時間はありません。
やっと音友ホールの前まで上って来たところで、ふと向かいに小さなリサイクルショップがあるのが目に入りました。だめで元々聞くだけきくか、と店に入って「ワイシャツなんてないよね。」ときくと、中古のラジカセや冷蔵庫の奥からアラブ系のオジサンが出て来て「アア、アルョ。」というではありませんか。この素朴な店構え、手書きでリサイクルと書かれた看板、入手不可能と思っていたワイシャツがここにある...、洋介氏は信じられない思いでした。オジサン、手前の中古品の山からごそごそと白い箱をひっぱり出し、その中に新品の白いワイシャツが! それも手に入れ難いLL! まさにこのサイズが必要なのでした。洋介氏は思わず「おおぅ。」と声をもらしたといいます。おずおずと値段を聞くと、この貴重なワイシャツはなんと500円でした。あまりの安さと安堵でもう一度「おおぅ。」と声をあげた洋介氏、戦利品を引っさげ非常口から音友ホールに戻ってくると、ステージの方からはちょうど前半最後のショパンのソナタ第三楽章「葬送行進曲」が流れているところでした。
それから数分後、前半を終えて楽屋に戻って来たピアニストを、着替え終わった洋介氏、何食わぬ顔で拍手で迎えたということです。後半のステージに登場した洋介氏は、テンションのあがった演奏で熱い拍手を浴びたのでした。
その後、粗悪なワイシャツは洋介氏の本番用シャツの棚に加えられました。そして洋介氏は「今度からは何があってもワイシャツが買えるくらいの現金は持っておこう。」と心に誓ったのでした。(筆者不詳)
最近のトラックパック